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2008/03/25

歴史に打ち倒されて(The Australian 07/12/08)

今回はオーストラリアの日刊紙The Australianの昨年12月8日付の記事を紹介します。

http://www.theaustralian.news.com.au/story/0,25197,22887177-5001986,00.html

ザ・レイプ・オブ・南京』の著者アイリス・チャンのことを取り上げた、新聞記事としては長いものですが、日本でほとんど知られていない彼女の素顔をうかがうことができます。

4才のとき、彼女は最初のミステリー物の物語を書いた。23才になるまでには、ジャーナリズムを専攻する、この中国系アメリカ人学生は処女作を書く契約を取り付けていた。処女作では、冷戦に怯える1950年代に米国政府により国外へ追放された、ミサイル開発に携わった中国人科学者を取り上げた。

6年後に彼女の第2作が出版された。中国のホロコーストと呼ばれる大虐殺を描いた、胸を締め付けられる本である。この事件は60年間、世界中で事実上、忘れ去られていた。

ザ・レイプ・オブ・南京』で(アイリス・)チャンは、1937年12月13日から始まった残虐行為を、身の毛もよだつ細部にわたって調べ上げた。その日、日本軍は、第2次世界大戦に先立つ日中戦争の中、この都市(南京)を占領した。7週間にわたる恐怖の軍事行動で20万から30万人の中国人――死亡者数は激しく議論されており、日本の一部のナショナリストは2万人以下と主張する――が無残に殺害された。殺されなかった者も、何千人か何万人かが責めさいなまれた。少なくとも2万人、おそらく8万人の女性が強姦され、その多数は殺害もされている。

チャンの物語は悪夢を思わせ、さながら魔の手引き書である。しかし、1997年以来、同書は50万部を売り上げた。29才の著者の美貌、大胆さ、激情を訴える雄弁さにより売り上げが落ちることはなかった。

日本が公式に謝罪し、賠償金を支払い、南京
(事件)のことを次世代に正しく教育すべきとする彼女の要求は、日本政府の一部の分子および日本の極右を激怒させた。米国国務省も、彼女が外交関係に悪影響を与えないか、憂慮した。ある印象的なテレビの討論で彼女は日本大使と対決した。

そして36才のとき、「バン!」という音とともにチャンは世を去った。

2004年11月のある朝、自動車で通りかかった人が、白いオールズモビルの中で前のめりになっている彼女を見付けた。場所はカリフォルニア州北部のサンホゼにある彼女の家から近い17号線の路傍。遺体の傍らには、グリップが象牙でできた骨董品の拳銃があった。弾丸が上あごを突き抜けていた。歯は折れ、服は血に染まっていた、と検視官は報告書に記している。

検視官は自殺と発表した。

ラジオでニュースを聞いた通勤者はショックを受け、路肩に自動車を止めた。チャンは優秀な技術者と結婚した有名で裕福な活動家で、2才になる息子がいた。彼女を思う両親が近所に住み、その活力と完璧な生活に友人たちは畏敬の念を抱いていた。「アイリスと話していると、わき立つ可能性の泉に飛び込んでいるようだった」。友人の1人バーバラ・メイシンはそう語る。

ピューリッツァー賞受賞者で、コロンビア大学ジャーナリズム学部で教鞭を取るデール・マハリッジは、中国人および中国系アメリカ人の自分の生徒がいかに彼女を尊敬していたか覚えている。そのときまでにチャンは、偏見を問う『
アメリカの中国人』を出版し、第4作のための調査に没頭して、落ち着かない日々を過ごしていた。今度の題材は、1942年、フィリピンでのバターン死の行進。この行進の中、アメリカ人およびフィリピン人兵士9万人が、彼らを捕虜とした日本人から苛酷な仕打ちを受けた。

悪の権力に立ち向かう個人スパルタクスという主題にチャンは興味を感じていた、とメイシンは話す。『南京』の中でチャンは次のように記している。「このような殺人や死を何とも思わない恐るべき態度、人間社会の進化の中のこの退歩は、誰かが世界に思い起こさせない限り、歴史の片隅に追いやられてしまうと思うと、急にパニックに襲われた」

大虐殺60周年を記念して――来週の木曜日
(2007年12月13日)で70周年となる――出版された彼女の本によって、この物語は初めて英語圏の大衆に知られることとなった。同書はこれまでに15ヶ国語に翻訳されている。

しかし、日本が自らの戦争犯罪に曖昧な態度を取り続ける20世紀から21世紀に、南京
(事件)は火種となる問題の1つである。批評家は、情に流されているとしてチャンを非難した。実際、いくつかの日付や名前が問題とされ、訂正されている。だが、その一方で、リチャード・ニクソンの伝記を著した歴史家スティーヴン・アンブローズのような賞賛者も得た。アンブローズは次のように言う。「彼女は最も優秀な若手の歴史家かもしれない。歴史を伝えるためには、興味がわくような仕方で語らなければならないということを理解しているからだ」

彼女には大勢の友人もいた。もっとも、中には晩年の興奮しがちなチャンと疎遠になった者もいることが死後、明らかになった。彼らはやましさを感じながら、何時間も長電話をするという彼女の噂に、疲れてしまったと弁解する。皮肉にも、自分たちの不完全な生活は彼女のそれに釣り合わない、とも彼らは感じていた。

そんな友人の1人に、イリノイ大学でチャンとともにジャーナリズムを学んだポーラ・ケイメンがいる。チャンは死の直前に何度か彼女と連絡を取ろうとした。しかし、ケイメンは1度、留守番電話に伝言を残させてから、遅れて、電話をかけなおした。2人が最後に話したとき、ケイメンは、快活だった友人が取り乱し、意気消沈し、悲しげな様子で話すのを聞いて、驚いた。彼女
(チャン)は言った。「ポーラ、あなたに話したいことがある。私はとても悲しい。私の身に何かあったら、あなたは親友だったということをいつまでも覚えていて。それだけ伝えたかった」

チャンは、バターンの本を書くことで新たな論争が起こることを心配していた。ここでもまた、残忍な話の数々はほとんど想像を絶していた。チャンのテープを文字に起こした速記者は、元兵士の話を聞きながら、涙が止まらなくなった。1998年、1通の電子メールの中で、CBSニュースのソウル特派員ヴィクター・フィックにチャンはこう訴えている。「悪質な日本の右翼団体から嫌がらせを受けずに、1週間が経つことはない」

今や、彼女はケイメンに打ち明ける。「地位の高い人たちは、こんなことは望まないだろう。はっきりいうと、ポーラ、私は自分の命を心配している」

南京
(事件)を暴いたことでチャンは喝采を受けた。中国を逃れ、60年代初めに台湾から米国に留学した優れた科学者である両親から、人よりぬきんでていることなら、何でもしたいことをしてよい、と言われて以来、頂点を目指して進んできたチャンの道程は、ここで1つの頂点を迎えた。

作家養成者のはしりであるマハリッジがInquirerに語ったように、「彼女は若くして急に成功した」

2人の最後の会話が頭から離れず、ケイメンはウェブ雑誌Salonに追悼文を寄せた。驚いたことに、その文は嫉妬を克服したことを喜ぶ凱歌となった。ケイメンは数百通の電子メールを受け取ったが、最初のメールはチャンと同じ分野を専門とする歴史家からのものだった。彼もまた、何年も嫉妬を感じていたことに、やましさを抱いていたことを認めた。「気にしないで。皆が彼女に嫉妬していた」とケイメンは答えた。

大きな反響が寄せられたことから、ケイメンは1冊の本『
アイリス・チャンと出会って 友情、野心、非凡な知性の喪失』を著すことにした。内面的な回想と推理小説風の物語との折衷になっており、物語の部分では、ときに対象以上に著者に巣くう魔物をさらけ出すこともある。

チャンは容貌と率直さで常に人を驚かせた。まだ大学時代に、後の夫ブレットン・ダグラスが1度、ベストセラー作家になる見込みがどれだけあるか尋ねた。彼女は「90パーセント」と答えた。

こうした性格と才能には、それなりの代償が付きまとう。チャンは絶えず、ねたみと、さらに疑いを招き続けた。同じサークルの女子学生から陰で「ばか」(dingaling)をもじって「チャンガラング」というあだ名を付けられていた。彼女は大学への就職を望んだが、果たせなかった。だが、いったん有名になると、他の成功者たちと気楽に交わった。彼らには嫉妬に駆られる理由がなかったからである。

彼女は米国大統領ビル・クリントンに指図するような真似もやってのけた。ダグラスと一緒に赤じゅうたんの上で大統領に会ったとき、ただ握手しただけではなかった。大統領に夫と一緒に写真に入ってくれるよう求めて、ダグラスに近寄らせ、画面外のシークレットサービスに手を振った。写真のクリントンは当惑しつつも楽しそうな笑いを見せている。

マハリッジは彼女の矢つぎばやの話し方について語る。「彼女は非常に迅速に物事を考える人だった。1時間が過ぎると、3つや4つでなく、15の問題が扱われていた」。
(チャン)謀殺説について尋ねると、彼はため息をもらした。「やれやれ!現代の話だ。仮にそういう脅威があったら、アイリスの事件はもっと前に起きていた。(本は)発表済みだったんだ!」

幼いときにチャンは南京
(事件)の話を聞かされた――母方の祖父母が難を逃れている。しかし、図書館に行っても、それ以上、調べることはできなかった。それから成人して、ある会議で、この都市の占領中に撮影された写真と対面した。「私はそれらの写真を見る準備がまったくできていなかった。白黒写真には、切断された頭、切り開かれた腹部、強姦された相手にしいられ、猥褻な姿勢を取る裸の女性が映っていた。苦悶と屈辱の表情を示して歪んだ彼女たちの顔を忘れることができない」

チャンの本は1つの国を攻撃したわけでなく、むしろ、1つの特異な軍国主義的文化を攻撃したのである。彼女が問題にしたのは、「我々全員を悪魔に変えたり、人に人間味をもたせている、弱い社会規制を引きはがすことも、これを強化することもできる文化の影響力」である。

戦争に参加し、日本で医師となった老人(待合室に良心の呵責から神棚をまつっている)は、彼女に次のように打ち明けた。「全員で200人以上の人々に対して、首をはねたり、餓死させたり、燃やしたり、生き埋めにしたりした。自分が獣になって、そういう真似をできてしまうということが恐ろしい。私が犯した所行について、一言の弁解もできない。私は本当に悪魔になっていた」

資料集めにかける情熱から、チャンは、それまで知られていなかったジョン・ラーベが収集・保管していた文書、メモ、書簡にたどり着いた。ラーベはドイツの実業家にしてナチ党員で、当時、この町
(南京)に配属されていた。しかし、南京(事件)は政治上の理由から「埋没」させられていた。米国は、冷戦下でロシアや中国に対抗するための同盟国として、日本を必要としていた。そのため、ドイツと同じように、日本にも戦争犯罪を突きつけるようなことはしなかった。中国政府は、自国が一般市民を適切に守れなかったことに決まり悪さを感じていた。傷を負い、貧しい人も少なくない何万人もの生存者たちは沈黙を保っていた。

チャンは、自分が日本を叩きをしているとして、攻撃されていることに気付く。脅迫状が届いた。夜遅くには「ブレットはどうしている?」「シャオジンはどうしている?」といって、夫や父の安否を尋ねる脅迫電話がかかってくるのが常となった。日本の漫画は彼女を、日本に対する白人の反感をあおって大喜びする口やかましい女として描いた。日本の斉藤邦彦駐米大使が1998年にワシントンで記者会見を開き、彼女の本を批判した。だが、チャンの影響を止められる気配はなかった。8ヶ月後、公共放送サービス
(PBS)の「ニュースアワー」の中で、チャンは斉藤を心から痛切な謝罪をしていないとして、容赦なく叱責した。

「彼女が失礼な人間だと思われていることに両親は呆然としていた」ニューヨークにいる彼女の代理人で、編集者だったスーザン・ラビナーは、そう語る。しかし、中国系アメリカ人社会は喜んだ。

「大半の学者がいくつかの点で彼女の著書に批判的だ。ささいな間違いがかなり多く、ほとんどは名前や日付に関するもので、おかしなことを書いていて、正確とはいえない。それは残念なことだ」オーストラリア国立大学のテッサ・モーリス=スズキ教授(日本史学)はそう述べる。

それでも、チャンの著書は非常に重要だとして、教授は言う。「同書は正に、この問題を米国の多くの人々が意識するようにした。そして、あの国で売れることで、日本で大きな議論と論争を巻き起こした」

さらに、話は続く。「右翼は日本でここ10年で、ますます声高に発言するようになった。Googleで『南京』を検索すると、何百万、何千万件もの検索結果が出る。多くは、写真はすべて捏造といって、大虐殺を完全に否定する。まったくばかげたもので、チャンについて、ひどいことを書いたものもある」

「何人かの日本の政治指導者が
(戦争犯罪について)謝罪をしてきた。しかし、欠けているのは、力強い言葉による閣議決定としての謝罪、日本政府による全体的な謝罪。それに続いて、個人補償が行われるべきだ」

「しかし、それを先延ばしにすればするほど、日本政府がそうした謝罪をすることは難しくなる」

ケイメンの記述によれば、1999年から2002年の間にチャンの中で何かが変わり始めた。彼女とブレットは子どもをもうけようとした。そして、度重なる流産と排卵誘発剤の服用の末に、2人にクリストファーという息子が授かった。その頃、ケイメンは何人かの友人から変化を認めたと聞かされた。そして、ケイメン自身、そのことに気付いていた。友人たちかチャンのいずれか、または、双方が交際から身を引いていった。

ケイメンの本を読むことに耐えられるか未だに分からないというマハリッジは、次のように説明しようとする。「力を奪い取られていたんだ。彼女は部屋の外の空気を全部、吸い込んでしまったんだろう。疲れ切っていたんだ」

1999年12月に取り乱したチャンの訪問を受けた際に、彼は衝撃を受けた。チャンは、2000年問題により自分の銀行口座の記録がすべて消されてしまうと信じていた。マハリッジは最終的に彼女を落ち着かせた。しかし、1時間経っても、彼女はまだ動揺していた。同じように彼も動揺していた。「『大変だ。彼女は精神を病んでいる』と思ったことをはっきり覚えている」

マハリッジは、作家が自分の中で均衡を保つことの必要について語る。「私は彼女に警告した。常に『作動中』でいることはできない。ホームレスに関する本を書いたら、次は、自分でも覚えていないが、カリブ海のリゾートに関する本を書くことにしたらどうだろうと言った」

2004年、第3作のペーパーバック版発売に際して、チャンは31日間で20都市のメディアを訪問する精力的な旅行を敢行した。その年の8月、バターン生存者にインタビューするため、ケンタッキー州を訪れたとき、彼女は「短期反応性精神病」とされる衰弱を経験した。4日間、眠らず、食事も取らなかった。短期間、入院しただけだが、米国政府が自分の信用を損なおうとしていると信じるようになった。

9月には、睡眠薬と1リットルのウォッカをもってホテルにチェックインするが、帰宅している。10月末、精神科医は彼女を双極性障害、つまり、躁鬱と診断した。この判断にチャンの家族は異を唱えている。

しかし、ケイメンの主張では、不妊治療と何度かの流産による不安定なホルモン変動や、排卵誘発剤が招くといわれる鬱といった健康状態の組み合わせから、疲労と緊張の間で裂け目が走り、その裂け目にチャンが投げ出されたという。

チャンは診断に愕然とし、治療や薬を拒んだ。彼女を担当した精神科医は最近、自殺した当時、彼女は必要な治療をまったく受けていなかった、とケイメンに語った。

鬱は、特にアジア社会では、未だに汚名をもたらす原因となっている。カリフォルニア州のある精神医療施設は、チャンの死後、相談に来るアジア人女性の数が倍増したと指摘している。ケイメンはもう1つの秘密を明らかにした。チャンの度重なる流産は、ある珍しい病気によるもので、夫婦は実子の生育のために代理母を使っていたのである。

チャンの死の前夜に交わした彼女との最後の会話について語るとき、ラビナーの声に苦悩の様子が感じられる。「彼女ははつらつさを失っていた。力強く、目標を見据え、粘り強い人だったのに。そのときは、私の言ったことをずっと繰り返していた」。しかし、終始、チャンに躁病の様子はまったく認められなかった、と彼女はいう。

遺書の中でチャンは、病気になる以前の「人生と切り結んでいた」ときの姿で自分を思い出すことを求めている。

アイリスの母で、今はイリノイ大学を退官した微生物学者のインイン・チャンは、躁鬱とする診断に同意しない。彼女はケイメンのインタビューを受けていないが、出版直前に校正刷りを目にしている。堂々とした簡潔さで彼女は述べる。「アイリスの置かれた状況は、もっと複雑だったと思う。躁鬱という単純なものではない。娘は疲れ果て、鬱から抜け出せる可能性がなかった」

彼女はさらに、薬物に対するアジア人の反応は特異なもので、アイリスは非常にやせていて、体重が標準以下しかなかったという。彼女は現在、娘に関する自身の著書を執筆中である。

娘は常に生涯に10冊以上の本を書くことを目指していた、とインイン・チャンは昨年、痛切に語った。

今度の水曜日
(12月12日)にドキュメンタリー映画「南京」が米国で公開される(オーストラリアでの配給は決まっていない)。チャンが制作のきっかけとなった、この映画にはウディ・ハレルソンやマリエル・ヘミングウェイといった俳優が出演する。国際安全区を創設し、数十万人の生命を救ったラーベらヨーロッパ人の日記や手紙や証言を俳優たちが読み上げる。

一方、「
南京の真実」と題する日本の映画もまもなく公開される。映画の監督は、(南京)大虐殺はプロパガンダ、捏造だと主張している。そして、ナショナリストの石原慎太郎東京都知事をはじめとする日本の政治家から支持を得ているといわれる。

マハリッジがケイメンの取材の感想を述べる。「本当はアイリスについて語りたくはなかった。しかし、私はジャーナリストで、人々から話しかけられることを常に望んでいる。自分の肩に止まって、『話しなさい』と言うアイリスの姿が心に浮かんだ」

誰よりもチャンが真実に達する必要を理解していたのであろう。

昨年12月で南京事件から70周年と同時に、チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』出版から10周年を迎えたわけで、海外でチャンに対する関心も盛り上がっていることが記事自体から伝わります。 事実、秋には彼女の友人による評伝がアメリカで出版されており、その記述が今回の記事で大きく利用されています。

また、11月にカナダで初公開された映画「アイリス・チャン ザ・レイプ・オブ・南京」も、その後、地味ながらも、カナダを中心に北米の劇場や大学で上映会を開いているようです。

さらに、今年に入って、2月から3月にかけて中国系カナダ人劇作家マージョーリー・チャンの戯曲「南京の冬」がトロントで上演されました。この戯曲は現代と南京事件当時という2つの異なる時代を舞台とするもので、現代編の主人公としてチャンをモデルにした作家が登場します。これらの本や映画や戯曲の評判は必ずしも良いとはいえませんが、複数の批評がメディア上で発表されているところを見ると、一定の反応を呼んでいるようです。

さて、「南京の真実」の話題は記事の最後の方に出てきます。チャンの著書がきっかけとなってアメリカでドキュメンタリー映画「南京」 が作られ、さらに、それに対抗して「南京の真実」 が制作されたという脈絡になっています。

すでに完成した第1部では実現しませんでしたが、水島監督は当初、チャンを中国共産党の情報工作員だったとする映画を構想していたようです。そして、それを3部作の残りで実現しようとしていると思われます。 しかし、上に書いたように、北米を中心にチャンに対する関心が少しずつですが、着実に増している気配があります。一般論として、ある程度、有名な人物に関して新事実や新解釈を打ち出すことは、ほとんど知られていない人物に対して同じことをするよりも、しっかりした根拠を求められ、難しいものです。そうした意味では、チャンを工作員とする映画を作ることは、今後、やりづらくなることが予想されます。